2158072 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

NIJIの夢

NIJIの夢

071~080


NO,071 大納言経信

071.大納言経信

夕されば 門田の稲葉 おとづれて
蘆のまろやに 秋風ぞ吹く

夕方になると、門前の田の稲葉を、さやさやと音を立てて、蘆ぶきのこの粗末な家に、秋風が寂しく吹いて来ることだ。

この歌は「金葉集」に、「師賢の朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風といへることをよめる」と詞書して収められています。
いわゆる題詠歌ですが、詞書のとおり、京都の西、梅津の里にある源師賢の別荘を訪れた時の作品であり、実際に田園風景を目の前にして読んだものと思われます。
風の動きを追う作者の視点が感じられ、同時に、読む人も稲穂が風にそよぐ風景を見て、さやさやという音を聞き、そして肌にふれる風を感じることが出来るような、実感のこもった歌となっています。


備考
山里の秋の夕暮れの風景を客観的に描くことで、そこはかとなく漂う物寂しさを伝える新しい歌風の叙景歌になっています。
物寂しさが漂う良暹法師(NO,70の作者)の歌の趣に加えて、さわやかな感じさえ与える歌です。

【大納言経信】だいなごんつねのぶ
源経信のこと。(1016‐1097)
俊頼(としより)の父。
別称は桂大納言。
平安後期の歌人で詩人。
博学多才、詩歌・音楽に通じ、琵琶は桂流の祖。
和歌では清新で格調高い作風をみせ、「後拾遺集」以下の勅撰集に入集。
日記に「帥記(そちき)」がある。
家集に「大納言経信卿集」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,072 祐子内親王家紀伊

072.祐子内親王家紀伊

音に聞く 高師の浜の あだ波は
かけじや袖の ぬれもこそすれ

噂に高い高師の浜のいたずらに立つ波は、うっかりかけますまいよ、袖が濡れるといけませんから。
浮気で有名な貴方のお言葉は心に掛けますまいよ、涙で袖を濡らすことになると困りますから。


この歌は、康和4年(1102年)に開催された「堀河院艶書合」で詠まれたものです。
この歌合は、公達に女性への懸想の歌を詠ませ、奥さん(女房)にその返歌を作らせて合わせるという特殊な形式で行われました。
紀伊の歌は、定家の祖父である中納言藤原俊忠の「人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ」に対する返歌だった。
「荒磯の浦に波が寄るように、夜、貴女の元へ行きたい」という意味です。
紀伊はこの歌を受けて「高師の浜」という海にちなんだ歌枕を取り入れて詠んでいます。
「あだ波」に浮気な男を例え、表向きは「高師の浜」の風景を詠みながら、裏では男の浮気心を皮肉って求愛を退けるという歌に仕立てています。
「艶書合」という遊戯的な場にふさわしい、技巧に凝った恋歌になっていますね。


備考
この歌合に参加したとき、紀伊は70歳だった言われています。
恋に年齢は関係ないが、それにしても、70歳にしてこの艶っぽい歌・・・(笑)
おそらく数多くの恋愛を経験した女性だったのでしょう。

【祐子内親王家紀伊】ゆうしないしんのうけのきい
平安時代後期の歌人。(生没年共に不明)
平経方の娘で、紀伊守藤原重経の妻。(妹とする説もある)
後朱雀天皇の第一皇女祐子に仕え、一宮紀伊とも呼ばれた。
歌人として名高く、「祐子内親王家名所歌合」を始めとして、数多くの歌合に参加した。
「堀河百首」の作者でもある。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,073 権中納言匡房

073.権中納言匡房

高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ

遥か遠くの高い山の峰の桜が咲いたなぁ。
人里近い山の霞よ、花が見えなくなるから、どうか立たないで欲しい。


この歌は題詠歌です。
つまり、実際に風景を見て詠んだものではありません。
しかし、「高砂の尾上」と「外山」を対応させて、広々とした風景をイメージさせる見事な歌に仕上がっています。
直接的に桜の花の美しさを描写するのではなく、霞に桜を消さないでくれと頼むことで、間接的に桜の美しさを褒め称える気持ちを表現しています。
流麗な調子が、おおらかで格調の高い歌になっています。


備考
「後拾遺集」の詞書には「内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山の桜を望むといふ心をよめる」と記されています。
「内のおほいまうち君」とは、内大臣藤原師道のことで、彼の屋敷での酒宴の席で詠んだ歌だということです。
上の句では、遥か遠くに見える山の桜を詠み、下の句では、人里近くの山の霞を擬人化して、心ゆくまで桜を眺めていたいから、どうか立たないでくれ、と呼びかけています。

【権中納言匡房】ごんちゅうなごんまさふさ
大学頭成衡の子。(1041-1111)
4歳から書を読む。
8歳で「史記」や「漢書」を読みこなし神童と言われた。
儒家の出ならが正二位権中納言に出世した。
八幡太郎源義家に兵法を教えたという話が伝わっている。
和歌の才能が豊かで「江家次第」や「本朝神仙伝」など多くの著述がある。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,074 源俊頼朝臣

074.源俊頼朝臣

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを

私に冷たかった人を、なびくように初瀬の観音様にお祈りこそしたが、初瀬の山おろしよ、おまえのように、あの人の心が辛く激しくなるようにとはお祈りしなかったのに。

俊頼は、「霊験あらたかとして当時信仰を集めていた長谷寺の観音様にお祈りしたのに、初瀬の山おろしのように、あの人は更に冷たくなってしまった」と詠んでいます。
初瀬の名物である山おろしを読み込み、それに掛けて相手の心のつれなさを表しているところが、この歌の面白味でもある。


備考
「千載集」の詞書には「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる」と記されています。
「権中納言俊忠」は家定の祖父にあたる藤原俊忠のことで、彼の家で「祈っても心が通じない恋」という題で詠まれたものです。

【源俊頼朝臣】みなもとのとしよりあそん
平安後期の歌人で、歌学者。(1055‐1129)
大納言経信の三男。
「金葉和歌集」の撰者で、白河院政期の歌人の第一人者。
藤原基俊に対立して、父経信から受けた清新な歌風を発展させた革新的歌人。
歌は「金葉和歌集」などの勅撰集に見える。
歌論書に「俊頼髄脳」、家集に「散木奇歌集」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,075 藤原基俊

075.藤原基俊

契りおきし させもが露を 命にて
あはれ今年の 秋もいぬめり

お約束してくださった「頼みにせよ、しめぢが原のさせも草」という、恵みのようなお言葉を命のように頼みの綱として来ましたが、あぁ、今年の秋も虚しく過ぎ去って行くようです。

「千載集」には、次のような長い詞書が記されています。
それによると、基俊の息子の僧都光覚は、維摩会の講師になる事を希望していたのですが、度々その選にもれていました。
維摩会は奈良の興福寺で、陰暦10月10日から16日まで行われる法会で、藤原氏の氏の長者が主催していました。
基俊が氏の藤原忠通に、息子を講師にしてくれるよう頼んだところ、「しめぢが原」の古歌を示して頼みにせよと言ってくれましたが、その年も選にもれてしまいました。
そこで、この歌を詠んで忠通に恨み言を述べたという訳です。
「しめぢが原」の歌とは『新古今集』に納められている清水観音の釈教歌「なほ頼め しめぢが原の させも草 我が世の中に あらむ限りは」のことです。
これは、「どんなに辛い事があっても、我が世にある限りはひたすら信じなさい」という意味です。
その言葉をあてにして待っていたのに、息子は今年も講師になれずに虚しく秋が過ぎ去っていく、と落胆の気持ちを秋の物悲しさに重ねて表現しています。
基俊の息子に対する愛情がしみじみと伝わってきます。


備考
基俊は歌学に造脂が深く、多くの歌合の作者・判者となりました。
しかし、学識を鼻にかけるようなところがあり、敬遠される面もあったと言われています。

【藤原基俊】ふじわらのもととし
平安後期の歌人で歌学者。(1060‐1142)
右大臣俊家の子。
温雅・保守的な歌風を尊重した。
院政期歌壇の代表的歌人で、革新的な源俊頼と対立した。
歌学に詳しく、「万葉集」に訓点をつけた。
藤原俊成の和歌の師で、俊成に「古今和歌集」を伝授、古今伝授の基を開いた。
漢詩文にも通じ「新撰朗詠集」を撰した。
家集に「藤原基俊集」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,076 法性寺入道前関白太政大臣

076.法性寺入道前関白太政大臣

わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波

広々とした海上に舟を漕ぎ出して見渡してみると、遥か遠くでは、雲と見間違えるばかりに、沖の白波が立っていることであるよ。

この歌も題詠歌です。
従って、実際の風景を見て詠んだものではありません。
歌合では、しばしばこのように題を与えられて詠む事がありました。
和歌の技術が熟成し、技巧を凝らした歌が多い時代にあって、「万葉集」を思わせるようなおおらかな詠みぶりが新鮮に感じられます。
この歌は、当時から高く評価されていたようです。


備考
「詞花集」には「新院位におはしましし時、海上遠望といふことよませ給ひけるによめる」と詞書されています。
「新院」とは崇徳院のことで、院が天皇の位にあったとき催された内裏歌合で詠まれた歌です。
「海上遠望」という歌題は、それまでの歌合には見られない新しい趣向の題でした。
実際の風景を見て詠んだものではありませんが、大海原が目に浮かぶような雄大な歌になっています。

【法性寺入道前関白太政大臣】ほっしょうじのにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん
藤原忠通のこと。(1097‐1164)
忠実(ただざね)の長男。
父及び弟頼長と氏長者の地位を争い、保元の乱後その地位を獲得。
詩歌にも優れ、書の法性寺流の祖とされる。
漢詩集は「法性寺関白集」、日記は「法性寺関白記」
家集に「田多民治(ただみち)集」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,077 崇徳院

077.崇徳院

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ

川の瀬の流れが早いので、岩にせき止められる急流が、一旦は二つに分かれても、後には必ず一つになるように、例え今は貴女と別れても将来は必ず逢おうと思うよ。

2人の仲を裂かれ、逢えないでいる愛する人への想いを、川の激しい流れに例えて詠んでいます。
上の句は下の句の「われても」を導き出すための序詞となっています。
急流の激しさを読み手にイメージさせて、その激しさは下の句の「逢はむとぞ思ふ」の恋心の激しさと重なります。
そして、急流が岩にせき止められて、二つに分かれる情景を離れ離れの現在の2人の姿に例えています。
しかし、やがて流れが一つに合流する情景を将来の希望になぞって、今は別れていても「将来は必ず一緒になろうと思う」という強い決意が読み取れます。
自然の情景を引用して、恋の現状と将来への決意を巧みに表現した優れた恋歌と言えます。


備考
5歳で即位して第75代の天皇となった。
後に鳥羽天皇の寵姫、美福門院に皇子(近衛天皇)が生まれたため、在位18年で2歳の弟、近衛天皇への譲位を強いられた。
この事が原因で藤原瀬長らと共謀して「保元の乱」を起こした。
結果は敗北に終わり、藤原瀬長は殺され、崇徳院は讃岐国に流されました。
讃岐に流された崇徳院は、怨み悲しむ日々を過ごした末に、その地で死亡したとされている。

【崇徳院】すとくいん
崇徳天皇のこと。(1119‐1164)
平安後期の天皇。
鳥羽天皇の第一皇子で、母は待賢門院璋子。
和歌に熱心な人で、初度百首・久安百首・句題百首などの「百首歌」を召した。
また、「詞歌集」の撰進なども命じている。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,078 源兼昌

078.源兼昌

淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に
幾夜寝覚めぬ 須磨の関守

淡路島から通ってくる千鳥の、物悲しい鳴き声のために、いく夜目を覚ましたことであろうか、須磨の関守は。

作者は、歌の舞台を須磨の関に設定しています。
冬の寒い夜に須磨の浦に旅寝をした際、千鳥の哀切な鳴き声を耳にして旅情がかきたてられ、須磨の関守はさぞかし毎晩目を覚ますだろうと、そのわびしさを思いやる形で詠んでいます。
旅先での一人寝の寂しさが伝わってきます。


備考
この歌は、「金葉集」に「関路の千鳥といへることをよめる」と詞書として収められています。
「千鳥」は、冬、水辺に群棲するので、この歌の季節は冬ということになります。
撰者の定家は、これを本歌として「旅寝する 夢路は絶えぬ 須磨の関 通ふ千鳥の 暁の声」という歌を詠んだくらい、この歌を高く評価していたようです。

【源兼昌】みなもとのかねまさ
美濃の守源俊輔の子。(生没年共に不明)
「内大臣忠通家歌合」に出詠しており、当時の花壇で活躍。
歌人としての名声は高くなく、後に出家した。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,079 左京大夫顕輔

079.左京大夫顕輔

秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけき

秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ間から、もれ出てくる月の光の、何と明るく澄み切っていることよ。

雲ひとつない秋の夜空に輝く月は美しいものです。
しかし、風にたなびく雲の切れ間から一瞬姿を現す月の光の美しさも格別なものです。
この歌は、そんな雲間の月の清らかさを讃えています。


備考
秋風が雲をたなびかせて切れ間を作り、そこから明るく澄んだ月が顔を出し、そしてまた雲に隠れてしまいます。
そんな僅かな間に見える月だからこそ、感動や名残惜しさを感じるのかも知れません。
この時代に好まれた余情や余韻が感じられる作品です。

【左京大夫顕輔】さきょうだいふあきすけ
藤原顕輔のこと。(1090‐1155)
平安後期の歌人。
藤原顕季の三男。
「詞花和歌集」の撰者。
歌風は温雅で詠嘆的、叙景の歌にすぐれる。
六条家歌道の祖。
歌は「金葉和歌集」などに入集。
家集に「左京大夫顕輔卿集」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,080 待賢門院堀川

080.待賢門院堀河

長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は 物をこそ思へ

貴方のお心が末長く変わらないかどうかも分かりません。
黒髪が寝乱れているように、今朝は私の心も乱れて、物思いに沈んでおります。


黒髪は日本人女性の美の重要な要素の一つに数えられます。
特に平安時代には、長く豊かな髪は、女性美の象徴とも言うべき大切なものでした。
作者は、その黒髪をモチーフにして微妙な女心を詠んでいます。
この歌は、題詠歌ではありますが、作者の恋愛経験が下敷きになっていること違いはなく、説得力のある歌となっています。
「黒髪の乱れ」が、後朝の女性のなまめかしさを感じさせ、官能的な美しさを醸し出しています。


備考
恋人と一夜を共にした翌朝に男性から贈られてきた、いわゆる「後朝の歌に対する返歌」という形で詠まれています。
一緒にいる間は喜びに満ち溢れているが、朝が来て恋人が帰ってしまうと、とたんに心変わりしないかと不安になって心が乱れてしまう。
逢瀬の後に寝乱れた長い黒髪に例えて表現しています。

【待賢門院堀川】たいけんもんいんのほりかわ
平安後期の女流歌人。(生没年共に不明)
源顕仲の娘。
鳥羽天皇の皇后待賢門院に仕えた女官。
中古六歌仙の1人。
「久安百首」の作者にも加えられ、歌人として活躍した。
歌は「金葉和歌集」「詞花和歌集」「千載和歌集」「新古今和歌集」などの勅撰集に見える。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇

081~090に進みます。


 ページトップへ

 ホームへ



© Rakuten Group, Inc.